BUMP OF CHICKEN「Merry Christmas」に学ぶアイロニーとしての開かれ

 今年のバレンタインは独りぼっちだ。確か去年も独りで過ごしたと記憶しているが、去年は別に寂しさを感じることはなかった。

 大学院生は孤独だ。いや、私の問題だろうか。できることなら博士課程に進学して研究職に就きたいと思っている。だが、言うまでもなく研究の世界は厳しい。修士課程のうちに目ぼしい成果があげられないようなら、きっと博士課程に進んだところで研究職に就くのは難しいだろう。研究職を志す人にとってvulnerabilityに晒されることは避けることができない。半端ものである私は、研究に対して人生を全ベットすることができなかった。一年目の夏には徐々に就職活動を始めた。しかし、今思うとこれが間違いだったのだろう。私は研究と就職活動を両立できるほど器用な人間ではなかった。結局、どちらもろくな成果をあげられない悲惨な結果を迎えつつある。

 成果は何一つとしてあげられていないのに、時間だけは奪われていく。今だって本当は数日後に学会発表(正確には違うのだが、特定を避けるために詳細は省く)が控えいてるというのに、原稿は真っ白だ。締め切りまでに原稿は完成するだろうが、胸を張って誇れるようなクオリティには仕上がらないのは確かだ。心は蝕まれていくが、それを恢復するために友人と交流する時間もない。大江健三郎が引用していたウィリアム・ブレイクの詩に自分を重ねたくなる。「落ちる、落ちる、叫びながら...」

 

 こんな孤独な状態だとクリスマスやバレンタインのような「幸せ」像が世界中を闊歩する日には惨めな嫉妬が止まらないのだ。しかし、同時にBUMP OF CHICKENの「Merry Christmas」という曲を思い出す。

 

「街はまるでおもちゃ箱 手品みたいに 騙すように隠すように キラキラ光る」

 

 流石藤原さんだ。クリスマスソングなんて腐るほどあるけど、「クリスマス」から疎外された人の目線から歌い上げることができるのは彼だけではないだろうか。「クリスマス」も「バレンタイン」もまるで世界中が一体化していくかのように錯覚させるほど街が一色になっていく。だが、実際にはそこから疎外された人々がいるはずなのだ。私のように一緒に祝ってくれる人がいない人だけではなく、そんなものを祝う余裕がないほどの苦しみに苛まれている人だっている。それは個人的なものだけではなく、社会が彼らに課したvulnerabilityに起因するものだってあるだろう。「クリスマス」も「バレンタイン」もそういう人々を覆い隠してしまう暴力的な側面があると思う。

 では、「クリスマス」や「バレンタイン」は廃絶するべきなのだろうか。藤原さんはここからもすごい。

 

「許せずにいる事 解らない事 認めたくない事 話せない事

今夜こそ優しくなれないかな 全て受け止めて笑えないかな

僕にも優しくできないかな あなたと楽しく笑えないかな 

笑えないかな」

「信号待ち 流れ星に驚く声

いつも通り見逃した どうしていつも

だけど今日はそれでも 嬉しかったよ

誰かが見たのなら 素敵な事だ」

 

 「流れ星」の恩恵に与ることのできない語り手。それでもなお、彼はクリスマスの暴力性を憎もうとしない。むしろ、誰かの幸せに貢献することを望んでいるのだ。語り手は「流れ星」の恩恵に与ることのできた他者の喜びを自分のことのように感じている。語り手にとって自己/他者の境界線が曖昧なものと化しているのだ。それを可能にするのは、「おもちゃ箱」のように全てを飲み込んでしまう「クリスマス」だろう。暴力を行使する「クリスマス」を逆手に利用し、他者へと開かれようとする逆説がここには見出されるのだ。

 この部分だけに着目すると、まるで語り手が常人離れした聖人であるかのように思われるだろう。しかし、藤原さんはここからもすごい。

 

「そんな風に思えたと 伝えたくなる

誰かにあなたに 伝えたくなる」

「優しくされたくて 見て欲しくて

すれ違う人は皆 知らない顔で」

 

 他者の幸せを喜ぶことができた語り手であるが、それでも結局そのような自身の善を誰かに語りたいという欲望を抑えることができない。「優しくされたくて見て欲しくて」。なんと美しいアイロニーだろう。他者との溶解を通じて聖的なものに近づいた語り手であったが、そこに何とも世俗的な欲望を見いだすことによって、決して自身を聖化させることなく世俗的なものにとどまろうとする。彼はきっと「クリスマス」に与ることはできないだろう。しかし、「クリスマス」の聖性を理解しながらも世俗的な彼だからこそ、「クリスマス」の外側にいる人々に対しても想いを馳せることができるのだろう。

 

 私自身どこまでも世俗的でみみっちい人間である。その世俗性にとどまりながらも、語ることのできない聖なる言葉を語ろうと志向し続けるアイロニーを実践したいと願う。

 

 

 

メディアとしての文学ではなく(1)

 教育学における物語研究の意義とは何であろうか。先行研究においては物語の中で描かれている教育像を通じて近代教育を批判的に捉えることや、教育という経験を可能にするメディアとしての可能性を追求することにその意義が見出されてきた。藤川信夫はNM(Narrative Medicine)のように、〈アナロジー源〉としての物語を豊穣化させることに教育哲学の役割を見出している。我々は物語を自己の文脈に取り込むことで変容を遂げることができるのである。

 

 しかし、一体なぜ物語という「虚構」が読者に対して現実的な変容をもたらすことができるのか。教育現象学者の大塚類は現象学における「真理」とは、間主観的に共有されている普遍的リアリティーであるとする。例え自然科学的に真であることが証明されることはなくとも、それがリアリティーを有する限りにおいて、我々はそのリアリティーを通じて自身の真理観を問い直すことができるのである。この反省的契機にはBiestaが「中断の教育学」と呼ぶ営為を見出すことができる。文学が有するメディア性が理解されるのもこの観点においてであろう。すなわち、読者は文学の中に自己を見出し共感するのである。

 

 だが、比較文学者であるエドワード・W・サイードが指摘するように、「表象は、従属的なものを従属的な状態にとどめおき、劣等なものを、劣等なままにしておくのである」(サイード 『文化と帝国主義』)。サイードによるこの発言は帝国主義をめぐるアポリアという文脈の中でなされたものであるが、よりミクロな観点からも同様のことを指摘することができるのではないか。「わたしたちは、いうなれば関係性に属している」(ibid.)。物語に対して自己を同一化させることは自己と世界との関係性を一義的に固定してしまうことにつながりかねない。もちろん、先述した「中断の教育学」はまさしくそのような同一化に抵抗することを企図したペダゴジーである。しかし、そこで被教育者に「中断」をもたらすのは、現実に存在する「テクスト」を通じた表象でしかあり得ない。すなわち、「中断の教育学」は「表象」という枠組みによる制限を課されているのであり、語られることのなかったものや「非同一的なもの」との関係に対して閉ざされてしまっているのではないか。ヘーゲルアガンベンが「動物の声」と呼んだ「人間の声」よりも前の「声」が表象からは取り除かれてしまっているのである。

 

 ここで「動物の声」を取り上げたのは理由なきことではない。矢野智司がすでに指摘しているように、日本の戦後教育学は人間中心主義を志向するものであった。戦後教育学は周縁の「動物の声」を内から取り除くことによって成立したのである。発達を重視する教育とは異なる変容をもたらす可能性として、矢野は漱石や賢治の作品に脱人間化の契機を見出している。しかし、「動物の声」にどれだけ近づこうともそれが意味するところを完全に理解することは決してできない。私が強調したいのは、「動物の声」を聴くことの無意味さではない。むしろ、それが理解できないものとしてあるからこそ、我々は「動物の声」に対して不断に向き合い続ける義務を有するのではないか。

 

 従来の物語研究が小説という「虚構」を利用して「現実」をより強固なものとすることにその意義を見出していたとするならば、私が構想している研究はむしろ「現実」の自明性を壊すことにその意義があるように思われる。「カタストロフィ」と称することのできそうなその営みによって、その姿を見ることのなかった過去・現在・未来と新たな関係性を結び続ける可能性へと開かれるのではないか。