メディアとしての文学ではなく(1)

 教育学における物語研究の意義とは何であろうか。先行研究においては物語の中で描かれている教育像を通じて近代教育を批判的に捉えることや、教育という経験を可能にするメディアとしての可能性を追求することにその意義が見出されてきた。藤川信夫はNM(Narrative Medicine)のように、〈アナロジー源〉としての物語を豊穣化させることに教育哲学の役割を見出している。我々は物語を自己の文脈に取り込むことで変容を遂げることができるのである。

 

 しかし、一体なぜ物語という「虚構」が読者に対して現実的な変容をもたらすことができるのか。教育現象学者の大塚類は現象学における「真理」とは、間主観的に共有されている普遍的リアリティーであるとする。例え自然科学的に真であることが証明されることはなくとも、それがリアリティーを有する限りにおいて、我々はそのリアリティーを通じて自身の真理観を問い直すことができるのである。この反省的契機にはBiestaが「中断の教育学」と呼ぶ営為を見出すことができる。文学が有するメディア性が理解されるのもこの観点においてであろう。すなわち、読者は文学の中に自己を見出し共感するのである。

 

 だが、比較文学者であるエドワード・W・サイードが指摘するように、「表象は、従属的なものを従属的な状態にとどめおき、劣等なものを、劣等なままにしておくのである」(サイード 『文化と帝国主義』)。サイードによるこの発言は帝国主義をめぐるアポリアという文脈の中でなされたものであるが、よりミクロな観点からも同様のことを指摘することができるのではないか。「わたしたちは、いうなれば関係性に属している」(ibid.)。物語に対して自己を同一化させることは自己と世界との関係性を一義的に固定してしまうことにつながりかねない。もちろん、先述した「中断の教育学」はまさしくそのような同一化に抵抗することを企図したペダゴジーである。しかし、そこで被教育者に「中断」をもたらすのは、現実に存在する「テクスト」を通じた表象でしかあり得ない。すなわち、「中断の教育学」は「表象」という枠組みによる制限を課されているのであり、語られることのなかったものや「非同一的なもの」との関係に対して閉ざされてしまっているのではないか。ヘーゲルアガンベンが「動物の声」と呼んだ「人間の声」よりも前の「声」が表象からは取り除かれてしまっているのである。

 

 ここで「動物の声」を取り上げたのは理由なきことではない。矢野智司がすでに指摘しているように、日本の戦後教育学は人間中心主義を志向するものであった。戦後教育学は周縁の「動物の声」を内から取り除くことによって成立したのである。発達を重視する教育とは異なる変容をもたらす可能性として、矢野は漱石や賢治の作品に脱人間化の契機を見出している。しかし、「動物の声」にどれだけ近づこうともそれが意味するところを完全に理解することは決してできない。私が強調したいのは、「動物の声」を聴くことの無意味さではない。むしろ、それが理解できないものとしてあるからこそ、我々は「動物の声」に対して不断に向き合い続ける義務を有するのではないか。

 

 従来の物語研究が小説という「虚構」を利用して「現実」をより強固なものとすることにその意義を見出していたとするならば、私が構想している研究はむしろ「現実」の自明性を壊すことにその意義があるように思われる。「カタストロフィ」と称することのできそうなその営みによって、その姿を見ることのなかった過去・現在・未来と新たな関係性を結び続ける可能性へと開かれるのではないか。